書評『人新世の「資本論」』

久しぶりの更新です。どうも、闇野雲です。以前公開していた記事は後で読み返してみると稚拙な論理であったり、そもそも僕の転向があったりで非公開にしました。

 

さて、最近何かと話題になっていて、フォロワーのリバタリアンも書評を公開していたりで、この流れに乗らねば、ということで、この記事では気鋭のマルクス研究者・斎藤幸平氏による著書『人新世の「資本論」』の書評を行いたいと思います。

 評価できる点

(1)最新のマルクス研究による成果をマルクス解釈に反映している

筆者はマルクス・エンゲルスの新全集を刊行する国際プロジェクト「MEGA」に参加しています。そのプロジェクトで得られた知見を筆者は惜しみなく本書で展開しています。例えば、晩年のマルクスが、自らの生産力至上主義とオリエンタリズム自己批判し、「歴史の必然」というマルクス・レーニン主義者のお題目を放棄していたという点です。現在でも中核派革マル派と呼ばれる、所謂新左翼は、「歴史の必然」というお題目の下に各党派の革命理論を展開していますが、それは晩年のマルクスの思想とは馴染まないということです。これは、元共産主義者であった僕でも知らないことで、非常に勉強になりました。

(2)資本制下で与えられる「豊かさ」に疑問を呈している

僕のような自由主義者が資本主義を擁護するロジックは何でしょうか。僕なら「資本主義は、例えばグローバル化に伴う国際分業によって、分けるパイを大きくし、また、市場によってそれが効率的に分配される(社会主義計算論争を参照)。だから、資本主義では労働生産物=価値が世の中に溢れて皆が幸せになる。今僕がこうしてブログに記事を書けるのもPCメーカーやプロバイダ、はてなブログの金儲けの結果だ。」このように擁護することでしょう。しかし、筆者はこう言います「資本主義は商品に『希少性』を付与することで別の商品との差別化を図り、絶えず我々消費者に必要ないものを買わせる。まだ使えるiPhoneを新しいものが出たからと買い、ファッションの流行に合わせてまだ着られる服を買い換える。もし、資本主義が分けるパイを大きくして皆を幸せにするのなら、どうして資本主義が発展した先進国で貧しい人々がいるのか」と。これは非常に考えさせられる主張だと思います。資本主義は確かに世の中に価値を増殖させて人々を幸せにするのですが、そもそも、資本主義でなければ「分けるパイ」を大きくしなくても、我々にとって本当に必要なものは手に入り、企業によって購買意欲を煽られ、その結果として、長時間労働を強いられることもなくなるのです。

批判したい点・疑問に思う点

(1)共同体での生産が重要であるとのことだが、それは現実的か

筆者は晩年のマルクスを引いて言います。「共同体での生産が重要である」と。ここでいう共同体というのはドイツのマルク共同体やロシアのミールをモデルケースとした共同体です。誤解のないように説明しておくと、農業共同体に回帰しろ、という主張ではないです。そうではなく、科学技術や、資本主義の中で生まれた学ぶべき点を引き継ぎながら相互扶助の共同体を構築しようという主張です。その共同体では生産手段は「コモン」として共有され、人々は平等で、共同体の生産は構成員によって、民主的な手続きを経て決定されます。しかし、それは現実的でしょうか?その共同体は大きすぎては機能しないので都市ごとに構築されるでしょう。例えば、「日本」という共同体は人口1億人以上を抱えていて、全員が参加する民主的な手続きは難しいからです。となると、都市ごとの共同体の構築が目指されるわけですが、それは、グローバル化という自然法則に逆らうようなものです。グローバル化というのは熱力学第二法則のように必然です。主義とか思想とかではなく、現実なのです。地産地消的な共同体はグローバル化という必然の前で耐えられるでしょうか。

(2)規制は強権的な国家権力によってしかなし得ないのではないか

共同体の構築が上手くいき、自主管理的な生産が始まったとしましょう。ですが、原始の共同体がそうであったように、資本を上手く活用して利益を上げる資本家が登場することでしょう。原始の共同体は資本家の登場により破壊され廃れていきました。では、それを防ぐことはできるのでしょうか?資本家が資本を活用して「コモン」を私有化するのを防ぐには強力な規制が必要です。しかし、その規制を実行力あるものにするには、国家という暴力装置による強権的な体制とセットでなければ実現できないのではないでしょうか。それが辿る結末はただ一つです。ソヴィエトのような凋落が共同体を待ち受けています。

(3)「価値ではなく使用価値」は正しいか

筆者は価値ではなく使用価値を大切にした経済が必要であると主張します。ですが、僕には使用価値というのがよく分かりません。需要と供給で価値が決まるというのは賢い小学生なら知っていそうなことですが、使用価値も需要と供給に組み込まれるのではないでしょうか。もし、商品に使用価値があって、万人が必要としているなら、需要と供給の需要が大きいわけですから、価格は上がるはずです。価格が上がらないのは需要に対して供給が大きいからです。筆者はエッセンシャルワーカーの給料が低いことを問題視していますが、給料が低い理由は単純で、代わりはいくらでもいるからです。エッセンシャルワーカーの中でも医師の給料は比較的高いことは、需要に対して供給が小さいことから説明できると思います。

(4)資本の包摂で人は無力になったか

筆者は資本の包摂、つまり、労働の分業化によって、昔の人ならば釣り竿を作って魚を釣り、調理するという一連の作業が出来たのに、今の人は釣り竿を買わないと釣りをできないし、調理してもらわないと魚を食べられないので「無力」になった、と言います。しかし、本当にそうでしょうか。僕は次のように考えます。つまり、人間は元来無力であり、他者との協力によって一人ではできないことを成し遂げてきた。それは資本主義でも同じであり、人間は資本主義によって「無力」になったのではなく、むしろ、社会的動物としてさらなる繁栄を手にしたのだ、と。

 

以上が僕の書評になります。本書は時代遅れのマルクス研究者による陳腐な資本主義批判という域を超えて、環境問題に憂う万人に読まれるべき本だと思います。環境問題という切り口で資本主義の矛盾を指摘した点は評価されるべきだと考えます。