歴史の科学と革命理論。或いは、マルクス主義入門
この文章について
この文章は僕が共産主義者だった頃に、インターネットではあまり出回っていないディープな共産主義情報を膾炙すべく、筆を執ったものの、未完成のまま日の目を見ることはなかったものをそのまま掲載したものです。ないとは思いますが、もし、要望があれば、この文章を完成させるかもしれません。その場合、全部で5章あるので、本が一冊書けるような文章量になりそうですが。それでは、青臭かった頃の駄文に少々お付き合いください。
はじめに
「はじめに」では「僕がこの記事を書こうと思った動機」と「この記事を読むにあたって注意して欲しい事」を記しておきたいと思います。まず、「動機」について。今日ではインターネットの普及もあり、マルクス主義に関する情報は容易に手に入るようになっています。しかし、その内容は玉石混交で、「正しい」と思われる情報から明らかに反共的動機から書かれた嘘やマルクス主義者によって書かれたものでも偏った見方から書かれたものがあり、また、壮大なマルクス主義の体系を俯瞰して書かれたものは少なく、そのため、初学者には独学でマルクス主義を学ぶのは難しいように感じます。それ故、共産主義は共産党宣言から170年以上経っても「幽霊」であるわけです。その様な状況においてマルクス主義とそれを取り巻く状況を俯瞰して学習出来るテクストを作成し、ブログ記事として公開する事で、労働者大衆のマルクス主義に対する理解を深めマルクス主義の発展と革命運動の加速に寄与したいとの考えから僕はこの記事を書くことにしました。そして、「注意事項」について。この記事を書くにあたって僕はなるべく中立的な書き方をする様に注意を払っていますが、僕自身がポスト・マルクス主義者である事、また、僕の知識に偏りがある事からどうしても幾つかある見地の中から一つを採用しなければならない場面があります。よって、僕の「マルクス主義入門」がマルクス主義入門の全てであるわけではありません。また、僕はマルクス主義を学習中の身であるので、マルクスの思想について誤った理解をしている可能性があるため、この記事の内容を鵜呑みにするのではなく、他のマルクス入門書なども参考にしながら読み進めていただけたら幸いです。
1章. マルクス主義のフレームワークについて
1. 3つのマルクス主義
マルクス主義と言われるものを大まかに分類すると3つあります。これは「マルクスをどう解釈するか」という観点で分類したものです。つまり、マルクスの解釈を巡って3つの流派があると言っても良いかもしれません。1つ目は「ロシア・マルクス主義」と呼ばれるものです。これは名前に「ロシア」と冠している事から分かるように、ロシアで発展したマルクス解釈で、マルクスの正当な(?)後継者であるレーニンがマルクスを独自に解釈したものです。その内容は「経済という下部構造が政治や法や文化などの上部構造を規定する」という「経済一元論」によって構成されています。後述しますが、このロシア・マルクス主義は日本において、特に、オールドレフトの思想によく採用されています。2つ目は「人間主義的マルクス主義」とか「人の顔をしたマルクス主義」と呼ばれるものです。東側のロシア・マルクス主義に対するアンチテーゼとして現れたこの人間主義的マルクス主義は初期マルクスの思想である疎外論にスポットを当て労働者の主体性獲得に重点を置いています。最後の3つ目は「ポスト・マルクス主義」です。これは「マルクス思想から、ヘーゲルの弁証法(から導き出される経済一元論)や人間主義的な疎外論の影響下にあった初期マルクスの思想を『切断』し、社会を科学的に分析した後期マルクスの思想を取り出す」という、マルクス主義の特権である科学性を取り戻す運動です。
2. いわゆる「マルクス主義」について
「マルクス主義」と言ったら大抵はロシア・マルクス主義を指し、そうでなければ、人間主義的マルクス主義を指します。何故、ポスト・マルクス主義を指さないかというと、歴史的にポスト・マルクス主義は「マルクス主義」に対して批判的であったからです。では、学校教育ではどの様にマルクス主義を教えられているかというと、これは僕の体験談であり普遍的かどうかは分かりませんが、高校の現代社会の授業においてはロシア・マルクス主義の持つ経済一元論と人間主義的マルクス主義の疎外論を持ち出して、「資本主義体制下では4つの疎外があり、その疎外=生産力と生産関係の矛盾が弁証法のテーゼとアンチテーゼとなり、経済一元論のもとで社会主義社会・共産主義社会というジンテーゼを生み出す」といった説明をしています。この様に、学校教育においてはロシア・マルクス主義と人間主義的マルクス主義の融合体として「マルクス主義」が語られます。所で、僕は人にマルクスの思想を教えるには最低限、「初期・後期」「3つの解釈法」を教えないと混乱すると考えているので、学校教育における指導法に問題意識を持っています。
3. ポスト・マルクス主義とは何か
ポスト・マルクス主義はマルクス主義の特権である科学性を取り戻そうとする運動で、60年代にフランス共産党の知識人党員であったアルチュセールなどが代表的です。ここでは主に、マルクス主義を構造主義的に読み取ったアルチュセールの思想を取り上げます。
【認識論的切断】
すでに述べている様に、マルクスの思想には「初期」「後期」で違いが見られます。初期のマルクスの思想はヒューマニズム的であり、後期の思想はヘーゲルの影響を受けた「経済一元論」、そして、マルクスの代表的な著作である資本論においては価値形態論が展開されました。アルチュセールは「マルクスには初期・後期の間に認識論的な『切断』があった」として、それを認識論的切断と呼びます。
【重層的決定】
ヘーゲルの影響下にあったマルクスは「経済一元論」を唱えます。それをドグマにしたマルクス主義者は下部構造=経済の転換による上部構造の転換を提起しますが、ポスト・マルクス主義はそれを俗流マルクス主義として退け、代わりに、下部構造と上部構造のあり方、つまり、社会のあり方は「重層的」に決定されるとする「重層的決定」を提唱します。
【国家のイデオロギー装置】
アルチュセールは国家を「生産関係の再生産を行うよう規律が作られたイデオロギー装置」であると規定します。これはどういう事かというと、生産関係、すなわち、資本主義体制においては「ブルジョア / プロレタリア」という関係を一代限りで終わらせるのではなく、教育や文化制度、法律などで「再生産」するよう国家が働きかけているとする国家観です。
2章. マルクス主義とは何か
2章ではいよいよマルクス主義そのものについての解説をします。1章では「マルクス主義には3つの解釈がある」と述べましたが、それぞれの解釈が「マルクス主義」のどの理論を下地に展開されてきたかを考えると良いでしょう。また、4節では19世紀の思想のチャンピオンであったマルクス主義と20世紀の思想的潮流であったポストモダンの関係性について触れます。
1. 初期・後期で異なるマルクスの思想
一口に「マルクス」と言っても実は「初期」と「後期」で思想的な断絶があります。1章3節でも触れましたが、フランスの哲学者であるアルチュセールはそれを「認識論的切断」と呼んでいます。特にポスト・マルクス主義では「切断」によってマルクスはマルクス主義の特権である科学性を獲得したと考えます。したがって、マルクスを学ぶ際にはそれが「初期」の理論であるのか「後期」の理論であるのか意識する必要があるでしょう。
2. 初期マルクスの思想について
初期のマルクスは資本主義体制下において人間が「疎外」されているという事に問題意識を持ち、それを人間疎外という概念で説明するなど後期とは異なって「人間主義的」な思想家でした。1章で説明した「人間主義的マルクス主義」はこの「人間疎外」をキーワードにマルクスを解釈します。では、この人間疎外というのは何であるのかという話なのですが、本来の労働はやりがいがあるが賃金労働制においてはそのやりがいから「疎外」されているというのが基本的な考え方です。初期マルクス曰く、人間疎外には4つ疎外があるとの事で、①労働からの疎外、②生産物からの疎外、③類的存在からの疎外、④他人からの疎外の4つからなります。順を追って説明します。
①労働からの疎外
先述した通り、マルクスは「本来の労働」にはやりがいがあり、人間は労働によって自己実現するものだと考えました。しかし、賃金労働制がそれを歪め、労働者から労働のやりがいを奪っているのが現状です。これを「労働からの疎外」と言います。
②生産物からの疎外
資本主義体制においては労働者が生産した商品はすべて資本家のものになります。本来、労働者が生産した商品は労働者のものであるにもかかわらず、商品は資本家のものとなり、資本家が労働者が生み出した労働の成果を奪っていきます。これを「生産物からの疎外」と言います。
③類的存在からの疎外
類的存在とは人間の事であり、「類」として社会的な生活を営む存在であるという事です。そして、一個人としてのヒトを社会的存在である人間たらしめているのは労働であるのですが、資本主義体制においては労働は苦しいものとして受け取られ、人間はただ賃金を得るために労働をします。これを「類的存在からの疎外」と言います。
④他人からの疎外
「本来の労働」で労働者は労働に自己実現を覚えます。しかし、資本主義社会では、市場に並ぶのは一人の人間が作った労働生産物としての意味はなくなり、単なる貨幣で価値を量るだけの商品になります。こうなると人間の興味はどれだけ短い労働で、どれだけ安く商品を買えるかだけになり、労働者と消費者が利益を対立させます。こうして対立した人間達は、お互いに疎外された存在となります。これを「他人からの疎外」と言います。